1860年頃、何があったのか
 1860年頃、西洋文明にとって大きなできごとがあったはずだ、と見当をつけて、それを探し始めました。というのも、1600年ころに発見された調性音楽を崩そうという試みが、その頃はじまったからです。そのできごとが起こる前は、調性音楽に対して絶対的な信頼を人々は持っていましたし、現代でも調性音楽でなくては商業的に成り立つことはむずかしい。人類にとってそれほど大切な調性音楽を崩し始めるきっかけになったものは、何だったのでしょう。
 試みに、“painting 1840” とgoogleでimages検索してみます。1840を1850, 1860, 1870と変えていくと、次第に作風も変わってきます。簡単に言えば「年末に届くカレンダー」に使えそうもない絵が増えてきます。(絵画とせずにpaintingとしたのは、できるだけ西洋文明だけを対象にしたかったからです)
 絵画では部屋に飾るのにふさわしくない絵画が増え、音楽ではレストランのBGMで使えない曲が増えてくる。
 何がそのきっかけを与えたのでしょう。たぶん、ダーウィンの「進化論」(『種の起源』1859年刊)だろうと思います。日本人にとって、進化論はとりたてて受け入れ難いものではありません。明治時代の人たちも「あっさりと」受け入れたようです。キリスト教が根底にある西洋文明に、進化論が与えた影響を実感することはむずかしいのですが、今まで疑いもしなかった『人生の根底』を揺るがすものだったのだろうことは想像に難くありません。今まで信じてきた調性音楽を崩そうとまで考えるほどの大きなできごとだったのだろう、と想像できます。
 もちろん、進化論以外にも、日本をはじめとするアジアの文化に触れたこと(明治維新が1868)、アメリカの南北戦争(1861-1865)、ガソリン自動車の発明(1870)に代表される科学技術の芽生え、それぞれ西洋文明に与えた影響は看過できないとしても、進化論ほどのインパクトはなかったように思います。
 進化論を知った作曲家たちは、無意識だとしても「オレは『サル』ではない」ことを明らかにするためにも難解な曲をつくる必要があったのではないか。その頃の作曲家の中でも特に才能がある R.Strauss の協奏曲で較べると、ヴァイオリン協奏曲 (1882)、ホルン協奏曲1番 (1883) はどちらも心を揺さぶる名曲ですが、晩年のホルン協奏曲2番 (1942)、オーボエ協奏曲 (1945)の2つは、はるかに難解な作品であり、人の心を揺さぶる力はなく、感動的とは言い難い。

キリスト教の人間中心観
ヨハネの福音書12章24節にある
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」
という言葉。人間中心で見れば「せっかく食べることのできる麦を食べずに地に蒔く」となりますが、麦からすれば「ごく自然に生きる」ことにほかなりません。同じく麦からすれば「地に落ちて」いないものは無駄死にですが、人間中心で見れば「人の口に入って有意義だった」ということになります。
Dec. 21, 2018