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アカデミズムと創作 「ゴールドベルク変奏曲」と「フーガの技法」はバッハの最高傑作として並び称されています。たしかに、どちらの曲も、さまざまな技法が駆使されていて、作曲技法としてのおもしろさは同程度ではあるけれど、二曲とも精神性の高い芸術か?というと、そうとも言えない※。「ゴールドベルク変奏曲」は芸術として輝いているが、「フーガの技法」は技法集という意味合いのほうが強い。J.S.Bach が子孫のためにいろいろな技法を残した、といったようなもの(後世の音楽家へ、ではなく子孫というのが時代を感じさせる)。 それでは、並び称されるのはなぜでしょう? そこにはアカデミズムの影響を感じます。このふたつの曲をアカデミックに分析すると「同じくらい高度な作曲技法が使われている曲」ということになるわけです。 そういう分析に対して、「精神の高さがちがう」とぼくが言っても、「それは個人の感想でしょう」とかたづけられてしまう。アカデミズムにおいては、個人の感想、個人的な気持ちを排除して、数値化または言語化できるデータだけを信頼して論を展開していかなくてはいけません。それは当然のことですが、それでは芸術のもっとも重要なこと、ことばでは言い表せないものを取りこぼすことになってしまう。 基礎的な技法を身につける上では、アカデミックな方法はひじょうに効率がよいと思います。和声学・学習フーガ・ソナタ形式での作曲などよくできた体系があります。それらを「音楽史実習」と呼んでいる人がいました。 長谷川良夫の「作曲法教程」という歴史的な名著があります。シェーンベルクやヒンデミットも作曲技法を紹介する本を書いていますが、それらの本と較べても遥かに充実した本です。さいきん、その本を拾い読みして、 「ここまで言語化してしまうと、作曲しにくいだろうな」と思いました。学生時代から数え切れないほど読んできた本で、「音楽史実習」時代はおおいに啓発されました。しかし、自分自身の音楽を手さぐりで追求していく時、言語化された作曲技法は足かせに成りかねません。創作にあたっては、アカデミズムからある程度の距離をとる必要があるのでしょう。
April 19, 2024 |