国語の授業から文学作品が消える?

   中学・高校のころ、国語の教科書が配られると、まず一通り読み通しました。それは、もちろん勉強熱心などというものではなく、ただただ、授業中に涙を出したくない、という理由からです。そのころから、ぼくは涙もろくて、感動するとかんたんに涙がでてくる。「国語の授業で泣いたヤツ」呼ばわりされる危険を事前に防いでいたわけです。
 考えてみると、国語の授業で文学をとりあげるとき、
 おいしそうな料理が目の前にあるのに、
「食べる前に成分分析をします」と先生が云う。
さんざん分析した結果、この料理は〇〇kCal、タンパク質は〇〇g、脂質は…
冷めて、見た目も悪くなった料理を研究室の無機質なテーブルで、
「さあ、めしあがれ」と言われても、もう食べる気にならない。
たとえてみると、こんな気分でした。文学、もっとひろく言えば芸術は本来「秘め事の喜び」である、と思うのです。
 国語の授業では、日本語の技術を磨くことに徹したほうがよく、音楽の授業も、楽譜の読み方の習得に専念するのがよいと思います。知らない曲でも、楽譜があれば歌える。初めて聞く曲のメロディを書き留めることができる。そういう指導に専念し、「楽しみのために歌う歌」「楽しみのために読む本」には、教育は立ち入らないほうがよいと思う。
     

July 17, 2020